昭和33年春 選抜髙等学校野球大会
| <野球部の誕生> |
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第一次世界大戦終結以来の慢性的な不況は昭和になって一層深刻になり国内では未曾有の金融恐慌、国外では満州某重大事件と、当時は極めて重大なことの情報は国民に知らされることが無かったが、何となく暗雲がのしかかるような気配は誰しも感ぜざるを得なかった。 このような重苦しさを払いのけるかの如く、スポーツ、特に野球に対する感心が非常に高まってきた。 東京六大学野球、甲子園中等学校野球等の隆盛は実に目を見張らせるものがあった。 明治中学(旧制中学)は都心にあって、比較的校庭が狭く、野球には不適であったばかりでなく、当時 進学一筋に進んでいた校内には野球に対する理解が難しい状況にあった。 |
| しかし、野球に対する感心の高まりは、遂にその波が本校にも押し寄せてきた。 当時の学校史には次の記載がある。 |
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昭和六年 六月十五日 田無グランド建設決定着手
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| 同 十六日 田無グランド休息所落成 |
| 同 十九日 本校野球部、朝日新聞社後援東京府中等学野球連盟に加入決定 |
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更に学友会誌第一五号には、当時の部員が書いた記事があるから引用する。 『長い間 出ずべくして出でなかった我が明治中学野球部が、遂に時期到来今春を以て華々しく名乗りをあげる事になったのは、我れ人共に実に愉快な事であった。 (中略) 何しろ校庭はあっても野球の出来ない悲しさに永年髀肉の歎をかこっていた全校野球愛好者は、あたかも渇者の水につくが如く田無に奔ってバットを振りミットをとった。 しばしば熱球は戛然 として(カツゼン:硬いものの触れる音の様子。今なら金属音か?)遠く夕映えの雲に入った。 (後略)』 |
| 野球部はこのようにして誕生し、年々盛んになって、好選手も出したが、チームとしては上位に進出することが出来ず、密かに部員が抱いていた甲子園大会の夢が実現するには いま少しの時間を要した。 |
| 戦後、明治高校野球部が春夏合わせて七回も甲子園に出場したことを思えば、当時の野球部は余りにも小さい存在であったが、わが校野球部は戦後初めて生まれたように考えられている点もあるので、これを正しておくこととする。 |
| <甲子園に花咲く> |
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昭和二十五年二月二十一日、毎日新聞社主催 第二十二回選抜高校野球大会に晴れて東京代表と確定し、念願の甲子園出場の夢が実現した。 |
| 遡ること、昭和二十一年夏 戦後新たに発足した野球部は 故 島岡吉郎監督の努力と部員一同の精進によって技量はめきめきと上がり、わずか半年にして大阪毎日新聞社主催の甲子園における全国選抜中等学校(学制改革前)野球大会出場の予選に最終決勝戦を都立二中と争うままでになった。 しかし、当時は敗戦直後のことで用具はおろか、日常生活の食料必需品にすら事欠いていた時代で、まだ野球全体のレベルも低くその試合は三十四対二十八というスコアで敗れ、双方とも大会出場権を失うという悲喜劇に終わった。 |
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以降、更に監督部員打って一丸となり、努力に努力を重ねて翌昭和二十三年には東京予選において慶応高校との決勝に臨んだが、再び甲子園出場の機会を失った。 しかし、この秋初めて東京代表として桐生市で開催された関東大会へ出場している。 翌昭和二十四年全国大会東京予選には、宿敵日大三高に再び破れ、甲子園出場の雄図も空しく挫折した。 しかし、この秋東京で開催された国民体育大会では静岡商業に敗れたものの東日本第二位を獲得して万丈の気を吐くことが出来たのである。 |
| かくして国体において波に乗った我がチームはその実力と気品を全国的に認められ、昭和二十五年三月、再出発五年目にして始めてあこがれの甲子園の土を踏むことが出来た。
しかも準々決勝で前年度選抜大会優勝高の大阪の北野高校に七対五で敗れはしたものの、強豪 彦根高校を六対〇に敗って球場のセンターポール高く紫紺の校旗を掲げ、白雲なびくの校歌は場内は勿論、全国へ電波に乗ってとどろかせることが出来た。 |
| 以降、春の選抜はこの昭和二十五年に続き、昭和二十六年、三十三年、四十年の四回、 夏の選手権は昭和二十五年、二十八年、三十三年の三回 合わせて七回の甲子園出場を果たしている。 |
| なお、甲子園では春夏の通算成績で十勝(七敗)を数えている。 |
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--- 参考文献: 明治大学付属明治高等学校・中学校発行 「六十年の歩み」 より ---
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更新日 2008-08-25 | 作成日 2008-02-09